横浜市 矯正の体験記
Rm・ブラザーズは、米国連邦破産法N条(チャプター・イレブン)を申請し、実質的に倒産した。
Rm・ブラザーズは、一五八年の歴史を誇る由緒ある投資銀行だった。
その昔、日露戦争を控えて、当時、N銀副総裁だったTが戦費調達のために訪れたのが、Rm・ブラザーズの前身の一つ、CR商会だった。
このときCR商会は日本国債二五○○万ドルを引き受け、日本は対露戦争に向けて戦費調達の目処をつけることができた。
このように、日本の近代史にも登場する、老舗の由緒ある投資銀行が、あっという間に倒産してしまったのだ。
そして、これを機に世界は大混乱を迎えることとなった。
このことが起きたのが、二○○八年九月だったのである。
Bcの名前に変わった、かつてのRm本社ビル。
話を進める前に、ここでRm・ブラザーズのような「投資銀行」とは、どのような存在だったかについて、簡単に見ておこう。
実際、Rm・ブラザーズの破綻が報じられる前までは、「投資銀行」という言葉がわれわれの目に触れることはほとんどなかった。
日本では、投資銀行の何たるかについて、きちんと理解している人はほとんどいなかったといってもいいだろう。
投資銀行は、「銀行」という名前をつけているが、一般の銀行(投資銀行と区別して商業銀行と言われる)とは違う。
預金者から預金を集めたり、小切手の決済を行なったりすることはしない。
また投資銀行は、「投資」という言葉をつけているが、投資を行なうことを主たる業務ともしない。
それでは、投資銀行とはいったい何をするのだろうか。
投資銀行は、企業や国家が資金を調達するに際して助言を提供する。
そして実際に社債や公債(国債・地方債)、あるいは株式を「引き受ける」(一括して買い取る)ことによって、企業や国家の資金調達に協力する。
さらには企業買収や合併のアドバイスにもあたっている。
FB商会は、FB(一七四○年、イギリス生まれ)によって、一七六二年に設立された。
一方、Mdの創始者、Mdは一七四四年、ドイツ・フランクフルトの片隅のユダヤ人ゲットーに生まれている。
当時ユダヤ人たちは、ゲットーと呼ばれる特別の区画でしか生活を許されず、市民権さえも与えられていなかった。
こういったルーツを持つヨーロッパのmBは、すでに十八世紀から十九世紀にかけて、アメリカに進出してきていた。
たとえばFB商会は、アメリカが十九世紀の世界の金融は、ヨーロッパに生まれたmBであるところの「FB商会」と「Md商会」の二社によって、支配されていたと言われこういった業務を行なうのが投資銀行だ。
つまり日本でいうところの証券会社にほぼ等しい。
ヨーロッパ、特にイギリスでは、mBと呼ばれている。
1803年にアメリカ合衆国政府が買収した仏領「ルイジアナ」独立する以前の一七六三年に、アメリカに進出してきている(Mdのアメリカ進出は一八三七年)。
一七七六年にイギリスから独立したアメリカ合衆国は、当初一三州しかなかった。
独立後のアメリカ合衆国は、アメリカ大陸西部への勢力拡大を目指した。
そして一八○三年、合衆国政府はフランス政府より仏領「ルイジアナ」の買収を行なうことに成功する。
この買収の背景には、実は投資銀行、当時のヨーロッパでいうところのマーチャント・バンクが、密接にからんでいた。
当時の仏領「ルイジアナ」は、ミシシッピ川流域ほぼすべてをカバーする広大な領地だった。
北は現在のモンタナ州から南はルイジアナ州に至り、現在の一五に及ぶ州が、ほぼすっぽりとこの地におさまる。
面積にして二一○万平方キロメートル。
現在のアメリカ合衆国の国土のほぼ四分の一にあたる。
この広大な領地を、当時の合衆国政府がフランス政府より買収するに際し、アメリカ国債を引き受けることによって、買収資金を合衆国政府に融資したのが、FB商会であった。
当時の新大陸アメリカには、希望に燃え機会を求めて、ヨーロッパから移住者たちが続々とやってきた。
そして彼らの中には、ヨーロッパ流の個人銀行を新天地で開業するものが出てきた。
これが後にアメリカの投資銀行へと発展していく。
この個人銀行の系譜には、大別して二つのグループがあるといわれている。
十九世紀前半にアメリカに移住してきた「ドイツ系ユダヤ人」のグループと、ニューイングランド地方に源をもつ「Yハウス」と呼ばれた金融業者たちだ。
ユダヤ人グループたちは、移住当初は、卸売り、小売り、商品ブローカーなど、主に商業に従事していた。
そして南北戦争を境にして金融業に入っていく。
一八五○年にRm兄弟によって設立されたRm・ブラザーズは、綿花の売買が出発点だった。
GSの創設者の一人、MGは、ドイツ・ババリア地方の出身であり、一八四八年にアメリカに移住した当初は、フィラデルフィアで行商人をしていた。
従兄弟同士であったKとRによって、一八五○年に設立されたCR商会は、出発点はインディアナ州の呉服商である。
すでに述べたとおり、このKR商会が、日露戦争に際して日本側の戦費調達を助け、その後、二十世紀も後半、第3四半期に入った一九七七年に、Rm・ブラザーズに買収されることになる。
もう一方の個人銀行の系譜として、当時の先進地域であった、ニューイングランド地方に生まれた金融業者たちが挙げられる。
「Yハウス」と言われた、これらの金融業者たちの代表的存在となったのが、一八六○年に設立されたJM商会であり、一八六五年にボストンで誕生したGPであった。
すでに述べたように、Rm・ブラザーズが設立されたのは一八五○年。
アメリカが南北戦争(一八六一年‐’一八六五年)を経験する前のことだ。
米国で黒人がまだ奴隷として扱われていたときのことである。
このときアメリカ南部のアラバマ州で設立されたRm・ブラザーズは、その後の南北戦争と、二つの世界大戦、そして一九二九年から始まった大恐慌にも耐えて生き延びてきた。
私は、二○○一年から二○○三年まで、Rm・ブラザーズの投資銀行部門でマネージング・ダイレクターを務めた。
現場における最高責任者がマネージング・ダイレクターだ。
当時の日本では、ITバブルが崩壊し、日経平均株価は一万三○○○円台(二○○一年四月)から七六○○円台(二○○三年四月)へと下落していった。
日本の大手銀行に公的資金が入ったのが、一九九八〜九九年。
その後の不良債権処理が必死で行なわれていた時期であり、欧米の投資ファンドや和製ファンドが、リストラがらみの再生案件を数多く手がけていた時期だった。
当時Rm・ブラザーズは、日本で八○○余名の社員を有し、東京の六本木と赤坂の中間に位置する、アークヒルズ・アーク森ビルの三四階から二一六階にかけてオフィスを構えていた。
六本木ヒルズができてからはヒルズの森タワーに引っ越した。
東京タワーや東京湾を見下ろすオフィスで、私は夜を徹して顧客と交渉したり、ニューヨーク本社とテレビ電話会議で協議した。
そのRm・ブラザーズの破綻が報じられたのが、二○○八年九月十五日だった。
Rm退社から五年の月日が経過していたとはいえ、Rm破綻のニュースは、私にとって衝撃的だった。
かつて一緒に働いていた数多くの仲間たちが、まだRmに残っていたからだ。
Rm破綻の報を受け、株式相場は世界各地の市場で急落した。
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